事務局からのお知らせ

特別寄稿 太田栄理子先生(元 岩手県立胆沢病院 小児科長)

2012年から8年間、岩手県立胆沢病院にお世話になりました。常勤小児科医は一人であり、私の力量には余る仕事でしたが、他科の先生、スタッフや応援の先生方に助けられ、大きな事故もなく終えることができました。そして、よくわからない症例・病態にぶつかった時には、子ども達が最大の教科書になりました。

現在は今年5月から徳之島徳洲会病院に勤務しております。胆沢病院時代に、長年応援に来てくれていた丸谷先生のご紹介です。今の状況は、ある意味で胆沢病院より過酷です。島に常駐している小児科医は私一人のため、何もかも集中してきます。ここで何とかやれて行けるのは、岩手での経験があったからこそと思っております。

しかし、ここで最も難しいのは搬送です。当院には産科もあり、日齢0からの搬送もあり得ます。今のところ日齢2が最少です。急変の可能性が高く天候のいい昼間ならDrヘリ、天候が悪ければ自衛隊ヘリ、もっと悪ければ海上保安庁の船です。すぐに急変する可能性が低ければ民間機です。RSウイルスが大流行し、日齢20の児から何人も転院させましたが、ほとんど民間機でした。ところが日に2便しかなく、夕の民間機に間に合わないときは当院に1泊入院させました。台風の時はよくなるまで当院で診た児もいました。

今後、搬送が間に合わず、不幸な転帰をとる児も出てくるとこと思われます。できれば診断書は書きたくないものですが、やむを得ません。

ところで私の趣味は山歩きです。岩手にいたころは雪解けが待ちきれず、山に行っていました。徳之島には高い山はありませんが、登るのにちょうどよさそうな山がいくつかあります。でも、ここに来てから一度も登っていません。ハブがいるからです。ハブは冬眠もしないそうです。熊より恐―い‼

徳之島徳洲会病院小児科 太田栄理子

写真は、徳之島徳洲会病院に面接に来た日に海岸で出迎えてくれたウミガメ だそうです(事務局但し書き)

特別寄稿 岩手県立久慈病院 小児科長兼医療研修科長 遠藤正宏

東日本大震災から10年目を迎えて

あの大震災から10年、長いようで短くも感じます。久慈医療圏でも野田村で中心部が壊滅的な被害を受けるなど、多方面に大きな影響が生じました。震災後に感じるのは岩手県民の皆様の苦境に負けない力強さと粘り強さでした。日常生活が立ち行かない方もいる中で、お互いに助け合ってここまで来られたのだと感じます。その中で顕わになったことは医療的ハード面、ソフト面の偏在化なのだと改めて気づかされます。特に久慈医療圏は高齢化・過疎化の先端をいくような地域であり、従来抱えていた問題点が大災害を経てより明らかになってきました。そして、震災に匹敵するような天災が繰り返され、COVID-19が猛威を振るう中で、これらのことは全国どの地域でも起こりえることなのかもしれません。当院でも復興支援を通じて多くの支援を賜って参りましたが、岩手の片田舎に興味を持って遠方から来て頂くことに感謝の念を禁じえません。これまで来られたすべての先生方と事務局にはこの場をお借りしてお礼申し上げます。

岩手県立久慈病院 小児科長兼医療研修科長 遠藤正宏

写真 小児科外来スタッフと遠藤医師(右から2人目)

特別寄稿 岩手県立遠野病院 院長 郷右近祐司 先生

東日本大震災から10年目を迎えて

当院の位置する遠野市は、四方を美しい緑の山々に囲まれた盆地にあり、「民話のふるさと遠野」として、全国的にも有名な郷愁の漂う街です。

平成23年3月11日に発生した東日本大震災の被災直後は、給湯管破裂により、階下の5階病棟は水浸しの状態で使用出来ず、3階と4階に患者さんを振り分けて入院診療を継続しておりました。

3月14日からは通常外来診療を開始しましたが、応援医師が、交通事情により来院出来なくなり、数日間、休診となった診療科も生じたところです。

現在の小児科は、常勤医師1名体制であり、「東日本大震災小児医療復興新生事務局」からの支援として金~日曜日の夜間・休日応援(不定期)を得て、診療体制を維持しております。平成25年4月から現在までいただいたご支援は、120回以上となりました。

今後も、当院は、遠野市を中心に診療圏人口31,000人を対象とする地域総合病院として、12診療科、122床で運営し、「地域のニーズに応え、優しく患者さんに寄り添い、笑顔のある病院」をコンセプトとして、地域に密着した医療を積極的に行って参ります。

岩手県立遠野病院 院長 郷右近祐司

写真は院内栽培のブドウと、遠野病院正面玄関

 

特別寄稿『かけがえのない時間を振り返って』 森山秀徳先生

東日本大震災から10年を迎えようとしています。そこで、自分が過ごしたかけがえのない時間を振り返ってみたいと思います。

約5年間岩手県陸前高田市と大船渡市で被災地支援に取り組みました。その間常勤医で働きながら、学校医・陸前高田市子ども子育て会議委員を務めさせていただきました。震災後に5年という長期に渡り被災地支援をしたのはあまり例がないことだったと思います。自分が地域のお役に立ちたいと思いながらも、逆に学びを得ることも非常に多かったです。自分に子どもの肥満という今後も取り組むべきテーマも与えてくれました。
私は国境なき医師団を通じて国際人道支援にも関わってきました。「なぜ困っている隣人を助けるのではなく遠い貧しい国の人を助けるのか」というよくある問いはいつも自分を一旦立ち止まらせます。究極に突き詰めれば結局は自分がしたいから、自分のためというのがその答えになってしまいます。純粋に子供たちを救いたいと思う一方で、世界の真実を知りたい、自分を成長させたいという欲求も自分を突き動かします。被災地支援に当てはめた場合、私が被災地でしたことは結局は自分のためなのか。
「魚を与えるのではなく魚の釣り方を教える」これはよく国際人道支援で使われる言葉です。緊急支援の場合には仕方ないが、長期の支援の場合に例えば服を無償で渡し続けると地元の服が売れなくなり経済の自立が難しくなる。これはアフリカの声です。さらには、最初はそのつもりがなくても物をあげ続けることでその人たちを物乞いにしてしまい、支援依存の構造にはまってしまう。つまり支援の仕方はいつも考えなくてはならない。自分が来たことで何かマイナスのことはなかったかと一度渕向先生に聞いたことがありますが、その時の答えはないんじゃないかなでした。そっと胸を撫で下ろしたのを覚えています。
啓発活動としてラジオ番組を持ったり、Blooming TAKATAという団体を作り子どもの健康支援や遊び場作りもしてきました。マスメディアにもいろいろと取り上げていただき自己陶酔になりかける一方で、本当の子供たちの支援にはずっとずっと手探りでした。上手くいかないことも多々ありましたがなんとか必要と思うことはしたつもりです。小児科での診療も子どもとその親御さんに寄り添う気持ちをいつも大事にしていました。

私は岩手県の皆さんからたくさんの愛情を受け取りました。自分もなんとか恩返しをしたいと一生懸命でした。例え自分のためであったとしても、愛情を持って相手のことを真剣に考えることが支援なのだと思います。もちろんこれからも被災地への愛情を持ち続けたいと思います。また皆さんにお会いできる日を本当に楽しみにしてます。自分がいた頃にはまだ開設されてなかった高田松原津波復興祈念公園には是非とも訪れたいです。

 

特別寄稿 『震災後に東北で勤務して感じたこと』岩手県立磐井病院小児科 東梅ひろみ先生

わたしが東北で初めて勤務させてもらったのは2014年だったので、震災からすでに3年経過し震災直後に比べれば少し落ち着いた頃だったのだと思います.
1ヶ月は岩手県立大船渡病院、その後1週間は現勤務先の岩手県立磐井病院で応援医として勤務させていただきました.
至る所で震災経験者の生の声を耳にし、復興途中の努力を目にし、大変な時期を乗り越えようと皆さんが必死に頑張っていることを感じました. そんな中でわたしが驚いたのは「人の優しさ」でした。応援医である短期間勤務のわたしを、本当に快く仲間として迎え入れてくれました. 渕向先生をはじめとする多くの先生方や病院スタッフの方々のことが強く印象に残り今でも鮮明に覚えています. 震災という辛い経験がここまで人を優しくするのか?元々の県民性なのか?震災後の応援医という立場では不謹慎なのかもしれませんが、非常に楽しく心地よく仲間に入れてもらえたことを今も非常に感謝しています.

それから、月日が流れ現在は常勤医として磐井病院にお世話になっていますが、震災後のあの思いや経験がなければ今こうして岩手県にいることはなかったと思います. 現在は、わたし以外に小児科常勤医3名・看護師・他職種スタッフの皆さんと毎日働かせてもらっています. 決して十分な人数だとは言えませんが、それぞれがそれぞれの立場から、体力的にも精神的にも一人にだけ無理がかからないように自然とお互いを支え合えあえている職場だと感じています.

震災を通して知り合えた大切な仲間であり、職場だと思っています.